あの日から7年目の日の夜ごはん。
私は、自分が以前から食べたかったお店に、5人の素敵な仲間に同席してもらっていました。
世の中が肉ブームななか、仕事ではなかなかいただかない魚メインのお店。
奇しくも、7年前の同じ時間、私は渋谷にいました。
渋谷の街は一部パニックになりながらも、帰宅すべきかどうかの判断がつかない商業施設も多く、私は17時からの予約があったネイルサロンに行き、18時からの取材現場へ。
現場では本社が海外のため中止か否かの判断がつかず、いつもどおりのレセプションパーティが繰り広げられていました。
私は、地震が起きたその時、テレビにはミヤネ屋が流れていて、16時の番組終了までずっと、ただ人が逃げまどい、建物に取り残されいる生中継を見ていました。
そんななか、15時半頃に「きたもとさん、今日の予約はいらっしゃいますか?」とネイルサロンから連絡が入り、 嗚呼、こうやって地球の裏側じゃなくても人の営みは続いていき、私はその輪の中に組み込まれているのだと実感しました。本当に営業しているんだとネイルサロンでネイルをしながら、その近くには電車待ちで座り込む人々がいるという異様な空間だったのを覚えています。
19時に帰宅後、途中目にしたやりきれない気持ちをずっとTwitterで実際の都内の状況や、私が親からの教えと知りうる情報をひたすら提供することでしか、この危機的状況を伝える方法はないと思っていました。(実際、私の投稿を海外出張先で見た人もいたそうで、帰国後あの時点の実際の状況が見えたといわれました)
悲しいかな、それは阪神淡路大震災でも同じでした。
あの時、早朝に我が家を飛び出してみたものの、近隣で逃げ出したのは我が家だけでした。朝5時台にパニックになったのは我が家だけで、夜勤でいない父から言われた「火事にしない」「避難ルートを確保する」「建物の近くにいない」を守るしかないと、そこから数日連絡が取れなくてもきっと大丈夫だと待つのみでした(当時は固定電話しか連絡手段がなかったのです)。
朝からずっと、テレビを見ていたんです。ずっと。
元々父が自由人で、勝手に1人旅に出たり、酔っ払って帰ってきたり、痛風になって玄関に薬が転がっていたことはあったものの、彼にとっての巣である我が家には必ず帰ってきていました。
「いつ帰ってくるかわからない」「生きて帰ってくるかわからない」状況は、意外と繊細だった母がパニックになったのを覚えています。
嗚呼、あんなダメ男といい放つ夫でも、頼りにしているんだなと。当時の自分ではどうしようもないのに、貯金通帳と判子だけ持って自分の部屋から脱出したのは、いま思うとそんなもので母と妹を守ろうとしたのでしょうか?
臨むべくは、いざというときには頼れる人、助け合える人がそばにいたほうがいいと思います。
今日は、旅の仲間が5人いました。
東京に住むとき、出身が東京の子が1名、東京が本社の会社に就職が決まってる子が1名しか知り合いがいなくて、おまけにどちらも配属によっては東京を離れてしまうかもしれない。そんな知り合いがほぼいないスタートだった私が、大切な週末に5人も一緒にいれくれるなんて、なんて幸せなんだろう。
そして、そんな人たちとつながってこれた自分の歩んできた道はそんなに間違っていなかったのかな?と思っています。
私にとって、3月11日も、1月17日も、9月11日も、特別な日だけど、1年、多い年で366日のうちの1日です。
一生のうちの、1日です。
まいにちが、特別です。
あしたも幸せに、おいしいごはんが食べられますように。
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